父、小林米作を語る
1950年 | ![]() 桐朋学園大学教授 小林 健次 |
2007年7月15日、科学映画カメラマン小林米作の100歳の誕生日を祝って彼が住み慣れた茅ヶ崎でささやかな祝賀会が開かれた。茅ヶ崎の功労者と言うことで市長さんのお祝いの言葉があり、彼の代表作の一つである「生命誕生」の上映や息子達夫婦や孫によるミニコンサートと本人も子供の頃覚えた歌を披露してお祝いに来てくださった方達を喜ばせた。 実は彼自身も若い頃、ヴァイオリニストになろうと思っていた時代があり、又映画制作者に必要な絵コンテの為の絵の技術も子供の頃に実家の酒造問屋に出入りしていた画家から手ほどきを受けていた。 周りから鬼のカメラマンと言われたり、過酷なヴァイオリンの練習を息子達に強いたりしていても、芸術を楽しむ遊び心をどこかに持っていて、それが彼の科学映画の魅力の一つになっていたように思う。 1本の作品を撮影するのに、予定より遥かに多い4000フィート以上のフィルムを使ったり、貴重な細胞分裂の映像が撮れても構図が美しくないと何度も撮り直しをするなど、それを受け入れてくれた科学映画の全盛期を盛り上げた東京シネマの社長、岡田桑三氏の存在は大きい。 話は遡るが、第二次大戦中に父はニュースカメラマンとして、東南アジアのジャワ島に派遣されていた。そこには、日本軍の急襲に遭い逃げ切れなかった沢山のヨーロッパ人がいた。その中に、世界的ヴァイオリニストでベルリンフィルハーモニーの名コンサートマスターでありながら、ナチスドイツの追跡を逃れアメリカに向かう途中で日本軍に抑留されたシモン・ゴールドベルグ氏がいた。 自らもヴァイオリンを弾いた父は、ゴールドベルグ氏を訪ね、恐る恐る、氏の演奏する姿を日本にいる子供達に送りたいので写真を撮らせてほしいと申し出た。ゴールドベルグ氏もそれを快諾され、100数十枚の写真を撮らせてもらった。明日の生命も保障されない境遇で、敵側とも言える日本人の子供のヴァイオリンレッスンを抑留所でして下ったゴールドベルグ氏には私は今でも感謝している。私は父のゴールドベルグ氏への思いを、戦時中の状況下でこの様な方法でしか表せなかったような気がする。 後日、NHKのゴールドベルグ氏の特別番組で、氏は写真を通じてでも、ある程度のレッスン(特に右手)は出来ると思ったと話しておられた。又、父は戦争中も子供達が世界の何処でも生活できるようなヴァイオリニストにする事しか、考えていなかったと話していた。 ゴールドベルグ氏はその後、日本軍部の特別許可を貰って抑留者の為のコンサートを企画、自分の記憶の中にあるオーケストラパートを雑誌の余白で作り、又5000人の抑留者の中からオーケストラメンバーを選び、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏した。その時の美しく心に深く沁みる演奏に涙を流しながら聴き入っている人達のスケッチが残っており、ゴールドベルグ氏は、飢えや明日をも分からない人生に苦しんでいる人達を唯一精神的に支えられるのは音楽なのだという事を悟ったと話している。 戦後、華々しく国際的な演奏活動に復帰された先生を訪ねて、留学中の私は1954年コロラド州アスペン音楽祭に参加した。先生も100数十枚の写真を撮ったカメラマンのことをよく覚えていてくださり、写真でレッスンをした弟子の私に会えた事にびっくりされ、大いに喜んでくださった。その後、度々日本にも演奏会と公開講座に来られ、又日本人ピアニストと結婚、かつて敵国だった日本を永住の地と決め、1993年富山で亡くなられた。 現在70歳以上の人達は、ある意味で戦争の犠牲者であり、又、戦後の復興を遂げた人達である。終戦後の1950年代は、日本はまだ食べ物にも困り結核などの病気が蔓延していた。東京シネマ製作の「ミクロの世界」は、そういう環境の中で若い意欲的な研究者達の協力と70時間以上の顕微鏡下の微速度撮影を吉見泰(脚本)、小林米作(撮影監督)のもとに作られた。「ミクロの世界」は一挙に12の国内外の科学映画祭賞を受賞し、日本の科学映画の質の高さが国際的に認められる結果となった。これは又経済的、文化的に疲幣していた日本の社会に明るい話題を提供した。 その後も「マリン・スノー」、「生命誕生」、「パルスの世界」などの名作を次々に発表し、又、ヨネプロ時代に製作された「BONE」は「時空を超えて価値ある作品」と高く評価された。これらの作品は二度と作ることが出来ない文化遺産の様に思う。幸い久米川正好先生の提唱で「科学映像館を支える会」が発足する事になった。授業で科学映像を使用した後の学生達の科学に対する反応と好奇心はまるで変化し、生き生きしたものになったと聞いている。これからの科学教育に欠かせない教材として社会に還元出来ればと願っている。 科学も音楽も感動を以て次世代に伝えなくてはならないと、痛感する今日この頃である。 | |





