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	<title>科学映像館 &#187; 科学映画の制作</title>
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	<description>科学映像館は、原版フィルムから高画質のデジタル化を押し進め保管するとともに、忘れ去られようとしている科学映像をインターネットから配信しています。</description>
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		<title>科学映画の制作</title>
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		<pubDate>Tue, 31 Mar 2009 03:36:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>mino</dc:creator>
				<category><![CDATA[科学映画の制作]]></category>

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		<description><![CDATA[初の自主制作品入賞を喜ぶ、 東京シネマの制作トリオ （左から小林氏、吉見氏、岡田氏） 1960年ごろから、科学映画は誰によっていかに制作されたのか？　このカテゴリでは、当初から制作に関係した方に原稿を依頼。撮影者・製作者 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div class="products1">
<p><img alt="科学映画の制作" src="/img/index.jpg" width="197" height="120" class="photo" /></p>
<p class="caption">
初の自主制作品入賞を喜ぶ、<br />
東京シネマの制作トリオ<br />
（左から小林氏、吉見氏、岡田氏）
</p>
</div>
<p>1960年ごろから、科学映画は誰によっていかに制作されたのか？　このカテゴリでは、当初から制作に関係した方に原稿を依頼。撮影者・製作者・脚本家・作曲家・生物試料作成者・ナレーターとしてご活躍された方々の制作への意気込み・苦労話・完成したときの感動などを書いていただいた。</p>
<p>残念ながら、小林氏・岡田氏・吉見氏・城氏を始め多くの方々がすでになくなられ、直接お話を伺えないのは残念である。今回小林氏についてはご子息の東邦音楽大学教授小林健治氏に、岡田氏については東京シネマ新社代表、科学映画の制作者としてご活躍の岡田一男氏に書いていただいた。その他の関係者にも、それぞれの思いを書いていただければと願っている。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>小林米作と科学映画</title>
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		<pubDate>Tue, 31 Mar 2009 03:35:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>mino</dc:creator>
				<category><![CDATA[科学映画の制作]]></category>

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		<description><![CDATA[1958年、一編の科学映画が世界を驚かせました。東京シネマ代表・岡田桑三氏と製作した「ミクロの世界」が日本だけでなく、パドヴァ、ヴェニス、ロンドン、ブリュッセル、モントリオール、モスクワ等の国際映画祭において、軒並み最高 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>1958年、一編の科学映画が世界を驚かせました。東京シネマ代表・岡田桑三氏と製作した「ミクロの世界」が日本だけでなく、パドヴァ、ヴェニス、ロンドン、ブリュッセル、モントリオール、モスクワ等の国際映画祭において、軒並み最高賞を受賞したのです。</p>
<p>このニュースは新聞紙上でも大々的に報道され、当時ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士や水泳の世界新記録を樹立した古橋広之進氏のニュースと同じように、終戦後の疲弊に苦しんでいた日本の社会に明るさと元気を取り戻すという評価を得ました。</p>
<p>このカメラマンが小林米作でした。社会に貢献したカメラマン小林米作は国語の教科書にも載りました。「ミクロの世界」の製作には、当時新進気鋭の医学者たちが力を惜しまずに参加し、作品の学問的価値を高め、それについてこの映像が国際的な研究発表や教育の現場にも役立っていきました。</p>
<p>その後も「生命誕生」等の名作が次々と世に送り出されましたが、これらの作品が撮られた生命現象は、製作当時には見過ごされても、現代の新たな学問の水準から見た時、なお多くの意味を語っているのではないでしょうか。この記録映像には、未来に向かっての価値が潜んでいるに違いありません。</p>
<p>この学問的意義を求める一方で、小林米作は科学映画を総合芸術としてもとらえていました。たとえば、三日三晩寝ずに微速度撮影した細胞分裂が映像が資料的には充分であっても、色彩・構図など映像表現の美しさに満足がいかなければ、何度でも撮り直しをしました。また、時代に先駆ける表現を求めて、当時の新進作曲家、黛敏郎・武満徹・松村禎三・一柳慧・間宮芳生等の諸氏に作曲を委嘱し、映像と音楽の総合を図っています。</p>
<p>「生命誕生」にパドヴァ大学科学教育映画大会（1963年）審査委員会は「この映画は、最高の技術と映画的表現の天才的駆使により、奇跡的完璧さをもって生物学の本質的現象を描き出している。それはまた高い抒情性にまで達した興味津々たる記録であり、かつ、人類の手による科学研究の頂点においては、科学と芸術とがまったく1つのものとなるという事実を映画的に立証している」と絶賛しています。</p>
<p>生命現象を見つめる愛と科学する知性、新しいものに立ち向かう勇気をもって制作された小林米作氏らの科学映画が、科学と芸術の進歩に役立つことを願ってやみません。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>父、小林米作を語る　</title>
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		<pubDate>Tue, 31 Mar 2009 03:34:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>mino</dc:creator>
				<category><![CDATA[科学映画の制作]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://kumegawa.xsrv.jp/wordpress/?p=23</guid>
		<description><![CDATA[&#60;&#160;プロフィール&#160;&#62; 小林健次（こばやし・けんじ） 昭和25年 渡辺暁雄指揮東京フィルハーモニー 定期公演でデビュー 昭和36年 ニューヨーク・タウンホールで デビューリサイタル、NYタイ [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div class="profile clearfix">
<div class="profile_left">
<p>
<span class="fwb">&lt;&nbsp;プロフィール&nbsp;&gt;</span><br />
<strong>小林健次（こばやし・けんじ）</strong>
</p>
<dl>
<dt>昭和25年</dt>
<dd>
渡辺暁雄指揮東京フィルハーモニー<br />
定期公演でデビュー
</dd>
<dt>昭和36年</dt>
<dd>
ニューヨーク・タウンホールで<br />
デビューリサイタル、NYタイムズ<br />
紙上で絶賛され、その後も世界で活躍
</dd>
<dt>昭和57年</dt>
<dd>
文化庁主催芸術祭賞、中島健蔵<br />
音楽賞、朝日現代音楽賞他を受賞。<br />
現在も多方面で活躍。桐朋学園大学教授
</dd>
</dl>
</div>
<div class="profile_right">
<p><img alt="桐朋学園大学教授・小林健次" src="/img/kobayashi_jr.jpg" width="115" height="135" class="photo" /></p>
<p>
桐朋学園大学教授<br />
小林健次
</p>
</div>
</div>
<p>平成19年7月15日、科学映画カメラマン小林米作の100歳の誕生日を祝って、彼が住み慣れた茅ヶ崎でささやかな祝賀会が開かれた。茅ヶ崎の功労者ということで市長さんのお祝いの言葉があり、彼の代表作の1つである「生命誕生」の上映や、息子夫婦や孫によるミニコンサートと、本人も子供の頃覚えた歌を披露してお祝いに来てくださった方達を喜ばせた。</p>
<p>実は彼自身も若い頃、バイオリニストになろうと思っていた時代があり、また映画制作者に必要な絵コンテのための絵の技術も、子供の頃に実家の酒造問屋に出入りしていた画家から手ほどきを受けていた。周りから鬼のカメラマンと言われたり、過酷なバイオリンの練習を息子達に強いたりしていても、芸術を楽しむ遊び心をどこかに持っていて、それが彼の科学映画の魅力の1つになっていたように思う。</p>
<p>1本の作品を撮影するのに、予定より遥かに多い4,000フィート以上のフィルムを使ったり、貴重な細胞分裂の映像が撮れても構図が美しくないと何度も撮り直しをするなど、それを受け入れてくれた科学映画の全盛期を盛り上げた東京シネマの社長、岡田桑三氏の存在は大きい。</p>
<p>話はさかのぼるが、第2次大戦中に父はニュースカメラマンとして、東南アジアのジャワ島に派遣されていた。そこには、日本軍の急襲に遭い逃げ切れなかったたくさんのヨーロッパ人がいた。その中に、世界的バイオリニストでベルリンフィルハーモニーの名コンサートマスターでありながら、ナチスドイツの追跡を逃れアメリカに向かう途中で日本軍に抑留された、シモン・ゴールドベルグ氏がいた。</p>
<p>自らもバイオリンを弾いた父は、ゴールドベルグ氏を訪ね、恐る恐る、氏の演奏する姿を日本にいる子供達に送りたいので写真を撮らせてほしいと申し出た。ゴールドベルグ氏もそれを快諾され、百数十枚の写真を撮らせてもらった。</p>
<p>明日の生命も保障されない境遇で、敵側とも言える日本人の子供のバイオリンレッスンを抑留所でしてくだったゴールドベルグ氏には私は今でも感謝している。私は父のゴールドベルグ氏への思いを、戦時中の状況下でこのような方法でしか表せなかったような気がする。</p>
<p>後日、NHKのゴールドベルグ氏の特別番組で、氏は写真を通じてでも、ある程度のレッスン（特に右手）はできると思ったと話しておられた。また父は、戦争中も子供達が世界のどこでも生活できるようなバイオリニストにすることしか、考えていなかったと話していた。</p>
<p>ゴールドベルグ氏はその後、日本軍部の特別許可をもらって抑留者のためのコンサートを企画、自分の記憶の中にあるオーケストラパートを雑誌の余白で作り、また5,000人の抑留者の中からオーケストラメンバーを選び、ベートーベンのヴァイオリン協奏曲を演奏した。その時の美しく心に深くしみる演奏に涙を流しながら聴き入っている人達のスケッチが残っており、ゴールドベルグ氏は、飢えや明日をも分からない人生に苦しんでいる人達を唯一精神的に支えられるのは音楽なのだということを悟ったと話している。</p>
<p>戦後、はなばなしく国際的な演奏活動に復帰された先生を訪ねて、留学中の私は昭和29年、コロラド州アスペン音楽祭に参加した。先生も百数十枚の写真を撮ったカメラマンのことをよく覚えていてくださり、写真でレッスンをした弟子の私に会えたことにびっくりされ、大いに喜んでくださった。その後、たびたび日本にも演奏会と公開講座に来られ、また日本人ピアニストと結婚、かつて敵国だった日本を永住の地と決め、1993年富山で亡くなられた。</p>
<p>現在70歳以上の人達は、ある意味で戦争の犠牲者であり、また、戦後の復興を遂げた人達である。終戦後の1950年代は、日本はまだ食べ物にも困り結核などの病気が蔓延していた。</p>
<p>東京シネマ製作の「ミクロの世界」は、そういう環境の中で若い意欲的な研究者達の協力と70時間以上の顕微鏡下の微速度撮影を、吉見泰（脚本）・小林米作（撮影監督）のもとに作られた。「ミクロの世界」は一挙に12の国内外の科学映画祭賞を受賞し、日本の科学映画の質の高さが国際的に認められる結果となった。これはまた経済的・文化的に疲幣していた日本の社会に明るい話題を提供した。</p>
<p>その後も「マリン・スノー」「生命誕生」「パルスの世界」などの名作を次々に発表し、またヨネプロ時代に製作された「BONE」は「時空を超えて価値ある作品」と高く評価された。これらの作品は2度と作ることができない文化遺産のように思う。</p>
<p>幸い、久米川正好先生の提唱で「科学映像館を支える会」が発足することになった。授業で科学映像を使用した後の学生達の科学に対する反応と好奇心はまるで変化し、生き生きしたものになったと聞いている。これからの科学教育に欠かせない教材として社会に還元できればと願っている。</p>
<p>科学も音楽も感動をもって次世代に伝えなくてはならないと、痛感する今日このごろである。</p>
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		</item>
		<item>
		<title>岡田桑三について</title>
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		<pubDate>Tue, 31 Mar 2009 03:33:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>mino</dc:creator>
				<category><![CDATA[科学映画の制作]]></category>

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		<description><![CDATA[&#60;&#160;プロフィール&#160;&#62; 岡田一男（おかだ・かずお） 1942年東京生まれ。全ソ国立映画大学卒。 科学映像・記録映像の演出・製作者。 東京シネマ新社代表取締役。 岡田一男 東京シネマの創業者で [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div class="profile clearfix">
<div class="profile_left">
<p>
<span class="fwb">&lt;&nbsp;プロフィール&nbsp;&gt;</span><br />
<strong>岡田一男（おかだ・かずお）</strong>
</p>
<p>
1942年東京生まれ。全ソ国立映画大学卒。<br />
科学映像・記録映像の演出・製作者。<br />
東京シネマ新社代表取締役。
</p>
</div>
<div class="profile_right">
<p><img alt="岡田一男" src="/img/okada2.jpg" width="115" height="130" class="photo" /></p>
<p>岡田一男</p>
</div>
</div>
<p>東京シネマの創業者であり、プロデューサーでもある岡田桑三（1903～1983）については、2002年に原田健一・川崎賢子の共著による克明な評伝「岡田桑三　 映像の世紀　グラフィズム・プロパガンダ・科学映画」が、平凡社より出版されている。</p>
<p>また、彼が関わった太平洋戦争時のプロパガンダ雑誌「フロント」の復刻版刊行（平凡社）にあたって、筆者が記した生涯の概略（1990年１月初出）が、若干の改筆を加えて東京シネマ新社の<a href="http://tokyocinema.net/sozo.htm" target="_blank">ホームページ</a>に掲載されている。</p>
<div class="products5">
<p><img alt="岡田桑三" src="/img/okada.jpg" width="150" height="210" class="photo" /></p>
<p class="caption">週刊朝日1964年12月11日号の表紙を飾った岡田桑三</p>
</div>
<p>岡田桑三にまつわるキーワードを整理してみると、まず80年のその生涯のうち、20年間を映画俳優、山内光として劇映画の世界で過ごしたことが挙げられる。半世紀にわたる盟友であった木村伊兵衛をはじめ、写真界や出版界にも多くの友人知人がいた。</p>
<p>また、10代のころよりアナーキズムに心を惹かれ、舞台美術家を志してのドイツ、ベルリンへの留学時にはマルクス主義を受容し、晩年に至るまで、紆余曲折はあったものの、その立場を捨てなかった。</p>
<p>しかし、もともとクリスチャンであった母親への反発から始まった批判精神と自由な発想は、教条主義への堕落から彼を救った。こうして20世紀の代表的なキーワードである「映像」と「社会主義」の双方に、彼は深く関わったのである。それらをつないでいたのは、夢であり未来への希望であった。</p>
<p>その人生の前半の総決算は、戦時プロパガンダ雑誌「フロント」の編集人となることであった。そこには、もともと豊かであった手持ちの人脈を総動員した。</p>
<p>しかし、この日本軍国主義への荷担が、後半生を複雑なものにした。1930年代の天然色写真への傾倒は、戦時における軍部との意見対立から「フロント」を退いた彼に、すぐ次の活動の場を満州に用意させた。しかし満州は、傀儡国家の崩壊、ソ連軍の占領、そして国共内戦と、敗戦国民の辛酸をいやというほどなめさせた。</p>
<p>敗戦後の混乱期を、出版世界で「南方熊楠全集」とアメコミ雑誌「スーパーマン」の発刊という、もう少しあとでなら成功したであろう試みで苦悶した後、たどりついたのが、1952年に始まる東京シネマにおける短編映画の製作なのであった。</p>
<p>10代の終わりにパリで見た、アメリカ人、ロバート・フラハティのイヌイットの暮らしを追った記録映画「ナヌーク（極北の怪異）」や、20代後半にモスクワで見た、ソ連ドキュメンタリー映画に触発された非劇映画への志向が、ここで花開いた。初期の東京シネマ作品を見れば、新しい表現メディアであるカラーフィルムを駆使した短編映画としての新鮮な感覚は見て取れるが、必ずしも生命科学の映像化を標榜するプロダクションではなかったことが見て取れる。</p>
<p>しかし時代は、本人の予想以上に、素晴らしい土俵を用意していた。</p>
<p>日本経済は、悲惨な戦争からの回復期に入ろうとしていた。戦後の最悪の時期を岡田桑三は、公職追放の身であった澁澤敬三を担いで、南方熊楠の全集刊行に奔走したが、それは経済的には不遇であっても、人文系、自然系双方の学問世界の人脈を豊かに広げ、その一端は経済界にも繋がっていた。その豊かな土壌が苦難の時代に用意されたのだった。</p>
<p>加えて世界的にも短編非劇映画は、かつてなかった黄金期を迎えようとしていた。その中で世界標準に通じる先端的な研究を映像化することの意味を直感的に、いち早く把握し、余人に先駆けて展開することができた。</p>
<p>東京シネマが、その威力を発揮したのは、1954年から1966年までの、たかだか12年に過ぎないが、この間にはプロデューサーである岡田桑三とシナリオライターである吉見泰、そしてカメラマン小林米作の、結果的に見ると豊かな協同作業があった。「ミクロの世界」や「生命誕生」に見られる、時間を追って変化していく事象への執拗な追求が、大きな意味を持つ作品には、特に威力を発揮した。</p>
<p>しかし、その取り扱う領域を広げようとすると、それはそれほど簡単ではなかった。東京シネマが12年間に関わった作品はおよそ100作品であるが、その多くで苦闘している。</p>
<p>電力会社をスポンサーとして第一歩を踏み出した東京シネマは、比較的に楽な一歩を踏み出したのだが、石油会社・丸善石油による「マリン・スノー」「潤滑油」「ガソリン」や、家電メーカー・松下電器産業による「パルスの世界」「結晶と電子」などをスポンサーとして科学映像を作るには、構成も工夫を要した。CGのない時代に安易にアニメに逃げるのを潔しとしなかった作風は、苦労を倍増させた。素直に対象を追うことで成功した作品としては、ヤクルトのスポンサードによる「選ばれた乳酸菌」ぐらいしか挙げられない。</p>
<p>それでも苦闘の成果は、東京シネマ作品をひと味もふた味も違う、他社の作品と際だったものにしているといえよう。これは同時代の、たとえば岩波映画や日映科学の作品とも異質であるし、東京シネマから離れていった人々が作ったヨネプロダクションや、シネサイエンス（現在のアイカム）の後の作品群とも異質である。たぶん、そこにプロデューサー、岡田桑三の強烈な個性が存在したからだ、と筆者はとらえる。製薬会社をスポンサーとする医学映画を作るというのは、科学映像の小さなジャンルに過ぎない。それを広げようとした挑戦が、岡田桑三と東京シネマには存在したのである。</p>
<p>2006年の夏、前年末に100歳で他界した小林米作の追悼のイベント「科学映画と音楽の午後」で、参加者にお配りする記念DVDに東京シネマからお出しする作品として、私はあえて「生命誕生」ではなく「ガソリン」と「結晶と電子」の２作品を選んだ。</p>
<p>この２作品は、失敗作と言えば言葉が過ぎるが、東京シネマの最高傑作ではない。私は、大先輩であるカメラマン小林米作を敬愛はするが、美辞麗句でおくるという意思はこれまでもなかったし、これからもない。しかし、これらの作品における小林米作の苦闘の跡を、多くの人々に見てもらいたかったのだ。それは、ある意味で、ついに小林米作が自分の会社、ヨネプロダクションでは再び取り組むことのなかった分野でもあった。</p>
<p>最後に、1966年に小林米作らが去った後の東京シネマと岡田桑三についても触れておこう。</p>
<p>1961年から66年まで、筆者自身はモスクワの全ソ国立映画大学（VGIK＝現在は全露国立映画大学）に留学し、リベラルな世界観の持ち主として知られたミハイル・ロンム監督を主任教授とする劇映画演出のコースに在学していた。</p>
<p>ここから筆者は映画の世界に身を置くことになったのだが、モスクワ在学中は、必ずしも科学映画に専念するという意識はなかった。ただ、５年間にわたって父親と文通を続ける中で、東京シネマが抱える多くの矛盾や悩みを父親と共有することになっていった。そして、必須科目を修了した直後に帰国して父親を支える決断をした。</p>
<p>1966年に経済的な困難に加えて、東京シネマ内部の葛藤は極に達した。これに対して、岡田桑三本人の決断もあったが、筆者は、実質的に東京シネマをいったん解体して、新たに出直すことを強く主張した。</p>
<p>移行期の作品には、製作体制にも妥協があったが、東京シネマ新社が確立したとき、旧東京シネマの製作スタッフは誰も加えず、しかも製作スタイルも大きく変わったプロダクションとして再生を遂げた。試行錯誤で変えていった部分もあるのだが、最も大きく異なるのは、自前のスタジオを持たないと決めたことである。そして、いかなる制作環境でも撮影体制を組めるよう、機材編成を考えていった。</p>
<p>当然ながら旧東京シネマの多くを検討したが、それ以上に、西独ゲッティンゲンの科学映画研究所（IWF）の機材編成や製作スタイルを参考にした。それはもう1つ、1970年に本格化した、学術研究映像、高等教育映像の国際的な収集運動、エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ（EC）の日本支部の立ち上げと、その後の運営に参画したこととも結びついている。</p>
<p>この中で、ほとんど同じ中心スタッフでミクロ映像も撮れば、スキューバを使った水中撮影もやるし、フィールドに出ては野生動物を追いかける自然誌映像を撮るし、伝統芸能や民俗的な儀礼の記録も、民族問題に関わるドキュメンタリーまでを、同列に扱うプロダクションに変貌した。</p>
<p>それらの仕事の初期に、老齢になった岡田桑三も積極的に関わり、必死で若いスタッフについてきて、さまざまなアドバイスを残してくれた。その死後、25年になろうとする今でも、彼のし残した仕事の一部を筆者たちは続けている。</p>
<p>その彼の人生の締めくくりとなったのは「マリン・フラワーズ　 腔腸動物の生活圏」の製作である。発端は、昭和天皇の生物学研究に触れ、ヒドロゾアの生態に関心を持ったことであるが、これは東京シネマを始めるより前の、出版世界に身を置いていた1950年代初期のことだ。それ以来20年間以上、その実現を夢見続けた。</p>
<p>評伝執筆のため、さまざまなインタビューを果たした原田健一は、桑三と親密だった民族考古学者、江上波夫に岡田桑三について尋ね「夢の多い人だった」と聞かされている。</p>
<p>敗戦直後の満州で一時期彼らは同居していた。１つの布団を男３人でシェアする中で、１人が赤痢を患って死亡し、伝染を恐れた江上は、桑三手持ちのアクリノール錠剤を一晩で一瓶、食ってしまったという。そんな悲惨の極みといった状況の中でも２人は、日本帰国後の壮大な夢を語り合っていた。</p>
<p>２人して三笠宮殿下をいただいて、応仁・仁徳天皇陵の発掘調査を実現しよう。発掘の総指揮は江上が担当し、映像による記録は岡田が指揮を執る、その資金源には糸魚川の翡翠を掘ろうという途方もない夢物語であった。いろいろな夢を持てる人間は幸せだ。</p>
<p>岡田桑三の人生は、さまざまな夢を見ては実現に向かって突進し、その一部では事実、輝かしい成功を勝ち得、その後に壮烈に挫折し、次の飛躍への苦闘を繰りかえすというものであった。幸いなことに、多くの友人・知人が挫折した彼を必ず救い出した。苦境の中にも、次への夢を見ることのできたのが岡田桑三であった。科学映像館で紹介されるいくつかの映像は、その夢の痕跡なのである。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
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		<title>一柳慧音楽と短編映画</title>
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		<pubDate>Tue, 31 Mar 2009 03:33:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>mino</dc:creator>
				<category><![CDATA[科学映画の制作]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://kumegawa.xsrv.jp/wordpress/?p=266</guid>
		<description><![CDATA[&#60;&#160;プロフィール&#160;&#62; 一柳慧（いちやなぎ・とし） 1933年2月4日、神戸に生まれる。作曲家、ピアニスト。作曲を平尾貴四男、池内友次郎、ジョン・ケージに、ピアノを原智恵氏に師事。 1954 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<span class="fwb">&lt;&nbsp;プロフィール&nbsp;&gt;</span><br />
<strong>一柳慧（いちやなぎ・とし）</strong>
</p>
<p>1933年2月4日、神戸に生まれる。作曲家、ピアニスト。作曲を平尾貴四男、池内友次郎、ジョン・ケージに、ピアノを原智恵氏に師事。</p>
<p>1954年から57年までニューヨークのジュリアード音楽院に学ぶ。その間にエリザベス・クーリッジ賞などを受賞。数々の現代音楽の作曲、演奏に4度目の尾高賞の受賞を始め、1999年には紫綬褒章。2002年、第33回サントリー音楽賞。2005年4月、旭日小綬章などを受章される。</p>
<p>現在「TIME-東京インターナショナル・ミュージック・アンサンブル−新しい伝統」の芸術監督、現代音楽祭インターリンク・フェスティヴァル芸術監督、国立劇場専門委員、日本音楽コンクールの委員、神奈川芸術文化財団芸術総監督などをつとめ、現代音楽の普及にも携わっておられる。</p>
<p class="bb">一柳氏は小林米作氏制作の科学映画の音楽も担当され、映像と音楽の総合芸術化にも貢献された。今回、一柳氏から小林作品の科学映画の音楽についてメッセージをいただいたのでご紹介する。</p>
<p>このDVDに収められている映像は、1960年代前半に作られたものである。それは私が7年間のニューヨーク滞在から東京へ帰国した直後の数年間にあたる。当時の私は、主に図形楽譜による実験的音楽を書いていたのだが、その私に小林米作氏は、自分の映画の音楽を担当するよう声を掛けてくださった。</p>
<p>小林氏の映像はそれ自体自立した作品として、時代の先端を映し出す思想に貫かれていた。特に当時としては初めての試みともいえる顕微鏡の特殊撮影による、ミクロの世界の徹底した考察に基づく撮影は圧巻である。私はその映像づくりのひたむきで真摯な姿勢に感動し、音楽の面で何とかそれに応えたいと思ってのぞんだことが、今まざまざと思い出される。</p>
<p>私にできることは、映像の内容に拮抗する音の世界を創ることであり、その点でこれら映像の中では、音楽も先端的手法を使っている。いろいろな楽器の特殊奏法、たとえばピアノなら内部奏法や、プリペアード・ピアノや、打楽器的扱いからピアノの音を電子的に変調したものなどを使っているが、それらは映像から触発された結果だったと言ってよいだろう。</p>
<p>映像の伴奏音楽なら、もう少し柔らかい質感の音楽を、今なら考えるかもしれないが、純粋な音楽作品を創るのと同じ態度で取り組んでいるところが、いかにも1960年代の文化や芸術が高揚しつつあった時期と呼応している感じが反映されている。</p>
<p>これらの映像が東京シネマによって保存され、40数年ぶりにDVDとして復刻されることで、貴重な資料として多くの人に観賞される機会が提供されることを素直に喜びたい。</p>
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		<title>世界で初めて骨が生きている映像を捉えた人</title>
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		<pubDate>Tue, 31 Mar 2009 03:32:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>mino</dc:creator>
				<category><![CDATA[科学映画の制作]]></category>

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		<description><![CDATA[&#60;&#160;プロフィール&#160;&#62; 折茂肇（おりも・はじめ） 昭和34年 東京大学医学部卒業 昭和61年 東京大学医学部老年病学教室教授 平成7年 大蔵省東京病院長、埼玉医科大学 総合医療センター客員教 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div class="profile clearfix">
<div class="profile_left">
<p>
<span class="fwb">&lt;&nbsp;プロフィール&nbsp;&gt;</span><br />
<strong>折茂肇（おりも・はじめ）</strong>
</p>
<dl>
<dt>昭和34年</dt>
<dd>東京大学医学部卒業</dd>
<dt>昭和61年</dt>
<dd>東京大学医学部老年病学教室教授</dd>
<dt>平成7年</dt>
<dd>
大蔵省東京病院長、埼玉医科大学<br />
総合医療センター客員教授
</dd>
<dt>平成9年</dt>
<dd>
東京都老人医療センター院長を<br />
経て現在、健康科学大学学長
</dd>
</dl>
</div>
<div class="profile_right">
<p><img alt="健康科学大学学長・折茂肇" src="/img/orimo.jpg" width="115" height="137" class="photo" /></p>
<p>
健康科学大学学長<br />
折茂肇
</p>
</div>
</div>
<p>話は今から25年前のことにさかのぼる。1991年に活性型ビタミンD（ワンアルファ）を上市した時の帝人（現帝人ファーマ）と藤沢薬品工業（現アステラス製薬）は、ワンアルファの学術映画を企画し、ヨネプロがそれを引き受け科学映画を制作することになり、当時東京大学医学部老人病学教室にいた私が監修者の1人として、このプロジェクトに加わることになった。</p>
<p>この時作られた作品が「THE BONE」（1982年）で、この作品は世界で初めて骨が生きていることを映像に撮ったものとして注目され、世界中の骨代謝研究者の賞賛を浴びた秀作であった。</p>
<p>この作品が生まれたきっかけは今にして思い出せば、2人の傑出した人物との出会いであったと思う。当時、城西歯科大学に久米川正好教授という極めて優れた骨代謝研究者がおられ、彼のグループが骨の組織倍養および骨の形成および吸収を行う骨芽細胞や破骨細胞の培養に取り組み、精力的に研究を進めていた。もう1人は小林米作というまれにみる逸材が存在したということである。この2人が協力し、金は出すが口は出さないという姿勢を保ったスポンサーのもとに、この快挙が成し遂げられたのである。</p>
<p>ヨネプロを率いる小林米作氏は自ら城西歯科大学に寝泊りして、顕微鏡下で培養細胞の微速度撮影を行った。当時は35mmのフィルムを使用して撮影していたため、数千フィートに及ぶフィルムが費やされたことである。この作品でもっとも衝撃的で貴重な映像は、単核の前破骨細胞が融合して多核の破骨細胞が生成される過程を明らかにし、骨が生きている組織であることを世界で初めて証明したことであろう。</p>
<p>1986年には「THE BONE II」が制作された。前作「THE BONE」は画期的な作品ではあったが、骨が生きていることを示したに留まったため「THE BONE II」では生体における骨組織やCa代謝を調節するビタミンDや、副甲状腺ホルモンの役割などについての解説がなされた。</p>
<p>「THE BONE II」は第4回メディキナーレ国際医学科学映画祭で、秀作賞・最優秀撮影賞ならびに第28回科学技術映画祭で科学技術庁長官賞を受賞しており、アメリカ、ヨーロッパで開催された骨代謝に関する国際学会において、この分野のトップレベルの研究者をうならせ、わが国における骨代謝研究のレベルを世界に知らしめた作品である。小林米作氏は写真家としてのみならず、科学者としても優れた眼を持っておられた人であり、その仕事ぶりはまさに真剣そのもので、鬼気迫るものを感じさせた。</p>
<p>2つの作品が完成された後、ある日突然私のところに来られ「研究者の姿」が撮りたいと言われ、私が当時の教授室で読書している姿を写真に撮ってくださった。この写真は私が現在勤務している健康科学大学（山梨県富士河口湖町）の学長室に大切に飾ってある。</p>
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		<title>膵臓の内分泌</title>
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		<pubDate>Tue, 31 Mar 2009 03:32:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>mino</dc:creator>
				<category><![CDATA[科学映画の制作]]></category>

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		<description><![CDATA[&#60;&#160;日本糖尿病財団理事長　科学映像館名誉館長　金澤康徳&#160;&#62; 私がジュネーブ大学から帰国し、東大で膵臓のβ細胞の単層培養系を使って仕事を始めていたところ小林米作さんが乗り込んできたのです。米 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><strong>&lt;&nbsp;日本糖尿病財団理事長　科学映像館名誉館長　金澤康徳&nbsp;&gt;</strong></p>
<p>私がジュネーブ大学から帰国し、東大で膵臓のβ細胞の単層培養系を使って仕事を始めていたところ小林米作さんが乗り込んできたのです。米作さんは培養された内分泌細胞が活発に動いているのを見て、この活動がインスリンの分泌や合成に関与していると感じ取り、画像化する努力が始まりました。</p>
<p>顕微鏡を挟んで、私の知る限りの知識で米作さんと討論しました。その時、種々の計画や画像が米作さんの脳を駆け巡っていたようです。</p>
<p>実際の撮影はほとんどが、五反田のヨネ・プロダクションのスタジオ内に設営した実験室、培養室で行われました。細胞の静止状態、活動状態の変化、細胞質内を活発に動くインスリンの顆粒、これらの生物学的意義を米作さんと議論しながらフィルム作りが進行しましたが、画像は私の範囲を超えて広がっていき、米作さんの感性が未知の科学の分野をとらえているのではないかと感じました。</p>
<p>できあがったフィルムの画像では、従来血流量が多いと推測されていたランゲルハンスの島はあたかも血管の魂のように映像化されていました。またβ細胞は分泌刺激により大変活発にヒラヒラと動いていて、細胞質内では0.2umという光学顕微鏡では従来見えるか？といわれたインスリンを含むβ顆粒が活発に活動していました。これらの画像は内分泌細胞の研究の分野に動的細胞学ともいうべき新しい学問分野の導入を意味するものでした。</p>
<p>小林米作さんは、生物現象に新しい側面を発見する特別な眼力を持った芸術家であったといえるでしょう。</p>
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		<title>私と科学映画</title>
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		<pubDate>Tue, 31 Mar 2009 03:28:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>mino</dc:creator>
				<category><![CDATA[科学映画の制作]]></category>

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		<description><![CDATA[&#60;&#160;カメラマン　春日友喜&#160;&#62; 植物プランクトンの集まり 「マリン・スノー」 私と科学映画の関わりは、ほかならぬ小林米作さんに出会うという偶然があったからでした。もう50年前のことですが、掛 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><strong>&lt;&nbsp;カメラマン　春日友喜&nbsp;&gt;</strong></p>
<div class="products4">
<p><img alt="マリン・スノー" src="/img/kasuga.jpg" width="154" height="115" class="photo" /></p>
<p class="caption">
植物プランクトンの集まり<br />
「マリン・スノー」
</p>
</div>
<p>私と科学映画の関わりは、ほかならぬ小林米作さんに出会うという偶然があったからでした。もう50年前のことですが、掛け出しのカメラ助手だった私は、ある映画技術者互助組織に属していました。</p>
<p class="cb">その組織から「注文が厳しいので助手が長く勤まらないというカメラマンがいるが、行ってみるか」といわれ、なにしろ仕事がしたかった私は2つ返事で小林米作さんの助手になったのでした。どういうわけかこの助手は長続きして、やがて一本立ちのカメラマンになったのです。</p>
<p>わが師、米さんは2004年になくなりましたが、数々の作品が35ミリの原版からHD化され、インターネットで配信され自由に鑑賞できることになり、たいへんうれしい思いです。米さんは次々に名作を生みながら、やはり時間がたつとともに、医学研究者や映画関係者の中だけの話題になりがちで、このように埋もれそうな芸術文化遺産を誰もが目にできることは、きわめて意義のあることだと思います。</p>
<p>医学の最先端のその奥、未知の世界へ、いつも飛び込んでいった米さんの探究心と洞察力は、科学者も脱帽する鮮やかな表現を可能にする鋭い目を持っていました。いったん被写体をとらえたら寝食をわすれてくらいつき、その粘り強い眼光は恐ろしいばかりに輝いていました。</p>
<p>当時、東京シネマに、カメラに興味のある人なら誰でも知っている超有名な写真家が、重役として時折出勤していました。その重役が使用しているカメラを手放すと聞いて、恐る恐る尋ねたところ、私などの手の届くような金額ではなく、泣く泣くあきらめたことがあります。それは良く使い込んだあのあこがれのライカでした。</p>
<p>それからしばらくの後、何かの雑談のなかで米さんに「良い写真を撮るにはカメラではなく、誰の心にも感動を与える眼を持つことだ」と言われました。カメラマンになって2年、現場ではいつも「米さんならこれをどこから撮るだろう」とまず考え、少し自信がついたと勘違いして心におごりができた頃で、その胸のうちを見透かされたようなタイミングに、ショックを受けたことを記憶しています。以来、自分の頭からカメラの名器は消えました。</p>
<p>それからは米さんの広い背中を見ながら、ひたすら物の本質を見極めることに努力しました。カメラマンが被写体に正面から向き合い、その奥にある真実を「見たい、撮りたい」と決めたとき、周囲を忘れてしまうことがしばしばあります。そして、ルーペから眼を離しフッと力を抜いた瞬間、世の中に見てもらうという現実に立ち返ります。そこから果たして真意が伝わるかという葛藤が始まります。</p>
<p>しかしこの時間は、不安と自信と期待とが入り交じって、カメラマン冥利に浸り、快感さえも味わえる時間帯でもあります。反面、自分の視線だけのレンズの視野は、時として独りよがりの映像に固執してしまうことがあり、それは見る人に対する作者の傲慢と、心にうつる眼の未熟さをさらけだすことになるかもしれません。</p>
<p>米さんも若い頃からこんな経験をいくつか乗り越えて、重厚な眼を宝に「ミクロの鬼」と言われる域に達したと思います。数多くの名作を残して逝った米さんの映像は、超一級品であると同時に、医学界の貴重な資料でもあるはずです。半世紀をへても今なお新鮮な映像をぜひ、見てください。</p>
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		</item>
		<item>
		<title>科学映画と生物素材</title>
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		<pubDate>Tue, 31 Mar 2009 03:27:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>mino</dc:creator>
				<category><![CDATA[科学映画の制作]]></category>

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		<description><![CDATA[&#60;&#160;生物資料製作者　浅香時夫&#160;&#62; 生命誕生より 映画の世界に生物素材が登場したのは、理科教材を主題とした教育映画が始まりではないでしょうか。かつては植物の発芽や開花、または発根、色水を使っ [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><strong>&lt;&nbsp;生物資料製作者　浅香時夫&nbsp;&gt;</strong></p>
<div class="products3">
<p><img alt="生命誕生より" src="/img/seimei.jpg" width="179" height="115" class="photo" /></p>
<p class="caption">生命誕生より</p>
</div>
<p>映画の世界に生物素材が登場したのは、理科教材を主題とした教育映画が始まりではないでしょうか。かつては植物の発芽や開花、または発根、色水を使った植物の水上げ実験など、また昆虫の世界では、蝶やトンボの羽化、蝉の羽化など比較的子供の手の届く世界のものが学校教育映画の主役でした。</p>
<p>しかし、現在のような医学や生物科学の生きた素材、特に目に見えない細菌の世界で構成された科学映画は、昭和33年に完成した東京シネマのミクロの世界が、日本では最初ではないでしょうか。結核と戦う体を、菌と細胞とに置き換えて表現した映像は、日本はもとより世界の科学者、医学者に、感動と驚嘆の衝撃を与えたのです。</p>
<p>私がこの世界に入ったのは、ちょうど、この興奮がまだ冷めやらぬ昭和34年前後のころでした。当時、東邦大学の解剖学教室で森於菟教授の、発生学実験の助手をしていたころでした。人を介して、私に東京シネマの岡田桑三社長から、映画の世界にも生物資料製作の研究室を作りたいので参加してほしいとの要請がありました。</p>
<p class="bb">そのころの大学は学内紛争のまっ最中で、森於菟教授の鶏胚発生の研究も一段落していたことと、教授の定年とも重なり、教授からも進められたのでこの世界に入りました。</p>
<p><span class="fwb">【映画のための素材作り】</span></p>
<p>こうして私がこの世界で最初の仕事を始めたのは、白金にある東大の伝染病研究所（今の医科学研究所）の病理学教室でした。研究室の一部分を間借りして、ささやかな実験機材を用意して材料作りを始めたのです。</p>
<p>当時東京シネマでは、癌シリーズの3部作を製作中でした。このスタッフは小林米作氏を筆頭に演出、撮影、それに私といつも7～8人で、がん細胞と抗がん剤の戦いを記録していました。</p>
<p>当時研究は、今のように培地も血清も自由に購入できる状態ではなく、すべて自家製です。培養液は処方に従って調整し、血清は芝浦の屠場で牛の血液をもらい、実験室に持ち帰って血清に分離し、濾過滅菌して使用していました。</p>
<p>この培地作りには、3～7日かかりました。この間、撮影スタッフを待たせておけないので、撮影用の材料は、何時も2段階から3段階準備した後、培地作りを始めたのです。</p>
<p>こうして私は、この仕事は大学の研究とはまったく違っていることを強く思い知らされました。培地作りや細胞培養は大学時代と同様ですが、中身が違うのです。</p>
<p>まず、材料（被写体）には、ちりなどの混在は厳禁、正確な現象を発揮する条件を作る。生物被写体の場合は、新しいドラマが起こる材料などが要求される。私が材料作りに参加するまでは、指導学者の研究室に泊まり込んで教室の先生方に材料を作っていただき、それを撮影していたようでした。</p>
<p>従って、もらった材料が良くない場合は、次の材料を作っていただくまで撮影はストップします。それだけ経費はむだになったようです。つまり、営利会社の仕事は、時間と経費が一体で計算されるから、撮影の進行状態で利益が大きく左右されるのです。そこで、私の専門的な材料作りが必要となったのでしょう。学校と会社は根本的に機構が違うということを、身をもって教えられました。</p>
<p>結果的に研究室は、カメラが休むことなく、回転し続けるように材料を供給することが大きな仕事だったのです。この仕事をやってきて、今過去を振り返ってみると、大学時代の研究よりも何倍もの実験と工夫、それに忍耐の繰り返しの連続であったような気がしています。しかしそれによって、誰よりも先に新しい発見も知り神秘的な現象も観察でき、大きな感動と喜びを味合うこともできたことも事実です。</p>
<p>現在の科学は、より複雑に実験、研究が細分化され、生物の世界でも物理や化学、さらには哲学的論理で現象を解明されつつあるのが現状です。お医者さんが、疾患1つを解読するにも数多くの現象を解読し、多くの化学反応を理解して治療薬を選択するのです。</p>
<p>このような論理で埋め尽くされた科学は、どのような映像で表現したら良いのでしょうか。この命題は才能のある若い科学者や芸術家の限りない宿題になっているのかもしれないでしょう。</p>
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		</item>
		<item>
		<title>「68の車輪」の撮影</title>
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		<pubDate>Tue, 31 Mar 2009 03:27:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>mino</dc:creator>
				<category><![CDATA[科学映画の制作]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://kumegawa.xsrv.jp/wordpress/?p=17</guid>
		<description><![CDATA[&#60;&#160;撮影者　春日友喜&#160;&#62; 半世紀に近い昔の作品であり、当時の記憶は大半消えてしまいましたが、断片的に残った撮影現場の様子を呼び起こしてみたいと思います。当時の制作者、制作主任、監督、撮影、 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><strong>&lt;&nbsp;撮影者　春日友喜&nbsp;&gt;</strong></p>
<p class="fr"><img alt="科学映画の制作" src="/img/68wheels.jpg" width="250" height="180" class="photo" /></p>
<p>半世紀に近い昔の作品であり、当時の記憶は大半消えてしまいましたが、断片的に残った撮影現場の様子を呼び起こしてみたいと思います。当時の制作者、制作主任、監督、撮影、照明、録音担当者など主要なメンバーはすでに他界し、私以外に見当たりません。</p>
<p class="bb">しかし作品は残り、久米川先生のご努力により再び日の目をみることができ、大勢の方に観ていただけることを大変うれしく思っています。</p>
<p><span class="fwb">【回想1】</span></p>
<p>深夜の国鉄常磐線の踏切を横断するシーン。最終列車と一番列車の短い間隔の間に踏み切りを渡らねばならず、緊張が予想される時間帯でありました。午前１時が過ぎたころ、最終貨物列車が通過し、高圧電源が切られました。その瞬間、静かに待機していた現場はたちまち騒然となり、戦場のような雰囲気に。線路補強の槌の音、上に敷く厚い鉄板を運ぶ掛け声、大勢の作業員が入り乱れて飛び交う中、作業は敏速に着実に進行しました。</p>
<p>さて撮影隊といえば、この状況を予測できず、甘い撮影設計があっというまに崩れ、頼みのライトが所定の場所に届かず、ライト、ライトと大声で叫ぶカメラマン、重いライトを運びながら怒鳴り返すライトマン達、次第に殺気だってきました。作業用のライトでもちょっと当たればカメラは回る。この緊張と疲労は夜明けまで続き、今まで経験したこともない、撮影現場だったと記憶しています。</p>
<p class="bb">デパートの屋上から撮ったロングショット。画面の中では、ライトマン達が重い10キロライトを担ぎ右往左往しながら、必死で照らそうとしている様子が。普通だったらライトが向き出しの画像なんて撮るわけがないのですが、これがドキュメンタリー映画です。今ではあの時の助手は誰だっけなんて思い出し、プッと吹き出しながら、楽しく振り返れるほど年月が過ぎ去ってしまいました。</p>
<p><span class="fwb">【回想2】</span></p>
<p>私はB班として撮影に参加していました。友軍というか割合気楽な立場で、運ばれるトレーラーの回りの状況を、味付け用に撮影する役目。春の野原を1週間ほど楽しめる予定だったのです。</p>
<p>しかし踏み切りを渡った翌日、異常事態が起こりました。車の免許を取ったばかりのカメラマンが、昼休みの間に交通事故を起こして病院に入院。すぐに現場の進行係りが病院向かったのですが、状況を十分運搬担当者に伝えないうちに、何事もなかったように午後の作業を開始したのです。</p>
<p>その瞬間、友軍であった私がメインのカメラマンに早変わりし、有無を言わせずトレーラーの周りを走り回り撮影しました。交通事故の様子を気に掛けながらも、タイヤの側で身構えると、当然のように撮影に集中。夕方、田んぼの低い土手につまずいて転ぶほど、疲れ果てていたことを今でも鮮明に覚えています。</p>
<p class="bb">カメラマンは、対向車と正面衝突したわりにはたいしたけがもなく、1週間程度で退院しましたが、現場への復帰はできなかったようです。</p>
<p><span class="fwb">【回想3】</span></p>
<p class="fr"><img alt="科学映画の制作" src="/img/68wheels2.jpg" width="200" height="150" class="photo" /></p>
<p>断片的な記憶の中で、今でも鮮明に思い出せる人がいます。あのトレーラーの屋上でハンドルを握っていた運転手の顔です。50歳前後で精悍な表情と真剣な目を持っていた、本当のプロのドライバーの威厳がありました。危険な場所に来ると、何回となく大声で怒鳴られたものです。</p>
<p>こちらも少々邪魔をしてもぜひあの顔を撮りたいので、夜になるとライトを照らす。運転者は見にくいはずで、鬼のような顔をして怒鳴ります。撮り終わってすみませんと大声で返します。そして目と目が合うと、何かお互いを認め、通じあっていたような気がします。私よりかなり年輩のように見えたので、多分もうお会いすることはできないでしょう。</p>
<p>無我夢中で頑張った68の車輪、今は亡き朋友M監督。いつも撮影中、彼の顔は左肩の側にありました。そして次の撮影対象を耳元で指示してくれたのです。スタッフの皆さんから信頼、尊敬されていた監督が完成後、教育映画祭で演出技能賞を受賞され、全員苦労が向われたと思う。</p>
<p>&gt;&gt;&nbsp;<a href="/movie/industrial/83/">映画「68の車輪」</a></p>
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